「今日! 今日ねこさまに会いに来て!!」
私の懇願に、Hは素直に従った。
新宿で呑んでいた様子だったけれど、すぐに私の新居にやって来た。
懐かしさが込みあげてくる。
縁あって夫婦になったのだから、この人を簡単に見切ってはいけない。
私はHを、きつく抱きしめた。
「オレ、ねこさまがいないと、生きていけないよ」
「そんなに、私が大切?」
「うん。ねこさまも、ボクのこと世界一大切でしょ?」
「うん、もう別れるなんて、絶対言わへん」
「分かってたよ、オレの元に必ず戻ってくるって」
思わず涙目になった私を見て、Hは満足していた。
それにしても、Hの過剰な自信は、いったいどこから湧いてくるのだろう?
「ねこちゃん、お腹すいてない? オレがおごるよ」
おそらく、婚約指輪と結婚指輪を質入れして得たであろうお金で、Hと久しぶりに、ファミレスで穏やかな時間を過ごした。
「ねこさまの指輪、ねこさまの誕生日までには絶対取り戻すから。オレを信じて」
「うん、私こそ、大切な指輪を投げたりしてごめんネ」
「オレさぁ、今Cさんのところで働いてるんだけど、もしかしたら社長になっちゃうかも知れないよ、クククク」
当時のHは、Cさんの元で船舶や土木関連の仕事をしていた。
その姿は「ジャーナリスト」どころか「日雇い労働者」なのだけれど、それでもHが収入の道を確保したことは、単純に嬉しかった。
「社長になるって、どういうこと?」
「Cさんが、船の会社と土木の会社を分けて、専業化したがってるんだよ。そこでオレに白羽の矢が立って、子会社の社長にならないかって言うんだ。もしオレが社長になったら、ねこさまのプロデュースも出来るように、会社の定款を書き換えるよ。社名は『オフィスH』でどうかなァ? ねこさまは、もうすぐ社長夫人だよ、クククク」
社長夫人!!
私のプロデュース!!!
歌人やライターとして有名になることを強く望んでいた私は、まるで夢のような展開にワクワクした。
やはり、この人について行こう。
これほど私を愛してくれて、そのうえ仕事にもプラスになる男は、そういない。
「じゃあ、来年の今頃は、二人とも大金持ちだね!」
「ねこさまも大忙しだよ。まず、ねこさまの歌集を世に出そう。テレビを使って、歌集の宣伝を打つよ。そして世間で話題になった頃に、ねこさまの歌集がバーンと書店に平積みされるんだ。その後はロフトプラスワンでイベントをやって、全国の書店を巡ってサイン会! ねこさまは一躍、スターだよ!!!」
この私が、スター!!!!!
ワインの酔いも手伝って、二人は深夜までハイテンションで将来の夢を語り、笑いころげていた。
しかし、Hが口先だけの妄想男だという事を思い知るまでに、さほど時間はかからなかった。
2005年7月上旬、『オフィスH』は書類上では一応設立されたものの、彼が大袈裟に語っていた「船上での社長就任パーティ」は、ついに行われなかった。
しかも、私の誕生日を過ぎても、Hが質入れした指輪が取り戻される様子は一向にない。
「ねぇ、指輪まだなの?」
何度Hに詰め寄っても、曖昧な返事が返ってくるだけだった。
思い余って質札を確かめたら、なんと流出期限は5月24日!!
既に、期限を一ヶ月半も過ぎていた。
やっぱり、Hを信じた私が馬鹿だった…。
私は、大声をあげて泣いた。
4月に、作家の睦月影郎先生のパーティでお会いした一水会顧問の鈴木邦男さんが、私とHのなれそめ話をひととおり聞いた後、
「彼は天性の詐欺師だね〜!」
とおっしゃったことを思い出した。
そう、彼は天性の詐欺師。
美味しい話に騙された私が、世間知らずのお子ちゃまだったんだ。
私の歌集を、マスコミを使って宣伝するだなんて話も、彼の妄想に違いない。
第一、全てにおいていい加減な彼に、マスコミを動かすほどの権力があるとは到底思えない。
嘘まみれの彼とよりを戻すのは、やはり無理がある。
錯乱した心でHに電話したら、奴は田町の居酒屋で、仕事仲間と楽しく呑んでいる最中だった。
「おい奴隷、呑気に呑んでんじゃねぇよ! あんたの嘘、こっちは全部お見通しなんだからな。9時までに家に帰って来なかったら、私死ぬから!!」
一方的にまくし立てて電話を切った後も、私の心は混乱していた。
何故、私の人生はいつも、ダメ男に翻弄されてしまうのだろう?
こんな人生、もう嫌だ…。
絶望的な思いでキッチンに立ち、包丁を手にした。
刃先を、そっと左ひじの裏に当ててみる。ひんやりと冷たい。
Hへの憎しみを込めて、包丁で初めて自分の腕を切った。
血は滲むだけで、なかなかボタボタと滴り落ちない。
こんな程度じゃダメだ、もっと深く切らなくちゃ。
傷口に、何度も何度も包丁を振り下ろした。
次第に、痛みの感覚が麻痺してくる。
パックリ裂けた白い傷口から、ようやく血がドクドクと溢れ出した。
私は傷口を流水にさらして、血液と水が混ざり流れるシンクを、放心して眺めていた。
9時2分。
Hが家に帰って来た。
けれど、私の異様な姿を見ても、Hが動揺したそぶりは感じられない。
「ねこさま、何してるのもう! そんなになるまで、ボクのこと愛してるんだァ。さ、馬鹿なことしてないで、旨いモノでも食いに行くか!」
こいつ、狂ってる…。
追い詰められた私が腕を切って血まみれなのに、病院に連れて行こうともしないなんて。
ひょっとして、狂言自殺だと思ってる?
私、アンタのせいで、うつ病なんだよ?
人間不信で、心がボロボロなんだよ?
余力を振り絞って包丁を右手で握り、Hの左手に思いっきり振り下ろした。
痩せぎすのHの血管は皮膚から近く、手の甲から鮮血がビューッと飛び散った。
「死ね! お前みたいなクズ男は、死ねばいいんだ!!!」
キッチンは、二人の血液でグチャグチャになった。