「ねこさま、痛い、痛いよ!」
「うるさい! 私の傷のほうが、もっと深いわ! 大袈裟な」
「だって、血が全然止まらないんだよ!!」
痩せぎすのHは血管が皮膚にくっきりと浮き出ているので、軽く包丁がかすっただけでも深く血管を傷つけてしまうらしく、出血がひどい。
Hはすっかり、自分の怪我に気を取られていて、左ひじの裏を何度も何度も自傷した私の傷の心配など、まるで頭にない様子だった。
「ほら」
昨日、街角で受け取ったナプキンの試供品を、Hに投げた。
「お前の血を止めるには、これで充分だよ!!」
苛立ちまぎれに、私は言った。
Hは、私が投げつけたナプキンを傷口に当てて、必死で痛そうなそぶりをしている。
ふん、わざとらしい。
「大丈夫?」とでも、いたわって欲しいのだろうか。
バーカ。
誰がするかよ、そんなこと。
Hはナプキンの上から包帯をグルグル巻きにして、まるで骨折した人のごとく、首から包帯を下げて三角ギプスを即席で作った。
包帯からのぞくナプキンが、なんとも滑稽である。
「ねこさまぁ、何かオレ、貧血っぽいよォ。力が出ないから、今日は家に泊めてよ」
「ハァ? ふざけんな! 変態ナプキン男は、そのみずぼらしい姿を世間の皆様にお見せしながら帰りな!」
甘え顔のHをこれ以上見たくなくて、嫌がるHを無理矢理自宅から追い出した。
翌日、新宿ロフトプラスワンで行われる「包丁妻」のイベントの打ち合わせのため、ライターの深笛義也さんに会った。
深笛さんとプラスワン階上の居酒屋で呑んでいたら、ロフト席亭の平野悠さんが合流された。
昨夜の自傷痕を見せたら、平野さんは顔をしかめながらも大喜び!
早速、三人で「記念写真」を撮った。
打ち合わせの最中も、Hは「ねこさまが男と浮気しないように」との理由から、ストーカーの如くプラスワン近くのバッティングセンターに居座り、そこで時間を潰しながら頻繁に私の携帯に電話をかけてきた。
どうやって、Hと完全に縁を切ろうか…。
05年初夏の私は、そのことで頭が一杯だった。
当時かかっていた、精神科の主治医に相談したら、
「こういう粘着タイプの男性には、毅然とした態度を見せないとダメだよ。自宅には入れない、電話がかかってきても、一切取らない。そのくらい徹底しないと、あなた一生彼に付きまとわれるよ」
と、厳しい顔で忠告された。
Hに、一生付きまとわれる!!!
嫌だ、それだけは絶対に嫌だ!
私は心を鬼にして、今度こそHと別れることを、主治医に約束した。
けれど…、私にはHを繋ぎとめておきたい、ひとつの理由があった。
浮気相手の男性が、いまひとつ煮え切らない態度を取り続けるので、私は寂しかったのだ。
ホテルで同じ部屋に泊まっても、私に手を出さなかった彼。
「抱いて」と迫ったら、「バカ!」と頭を小突かれた。
別に彼と再婚したいとか、面倒を見て欲しいなどと思っていた訳じゃない。
ただ、彼に女として抱かれたかった。
彼は私に優しかったけれど、男としての強引さに欠けていた。
いつも、兄のような態度で私に接する。
もっと激しく私を求めて、離さないでいて欲しいのに…。
まるで「性的な妹」のようなポジションに、私の心はしばしば掻き乱された。
彼に、会いたい…。
会って、私を抱きしめて欲しい…。
会えない夜は、彼の裸体を思い描いてオナニーをした。
そんな自分が、たまらなく虚しかった。
彼に電話をかけても繋がらなかった夜、私は寂しさに耐えきれず、ついにHに電話をかけてしまった…。
「ねこさま、どうしたの?」
「寂しいの。これから家に来て!」
「でもオレ、今20円しか持ってないから、無理だよ」
「お金がないのなら、歩いて来ればいいじゃない。新百合ヶ丘から家まで、6時間も歩けば着くでしょう?」
「分かった。歩いて、ねこさまに会いに行くよ」
思い通りの崇拝者の言葉に、私は満足した。
Hはさながら、女王様のどんな我侭にも応えてくれる奴隷だった。
自分の言いなりになる男がいるって、何て素晴らしいんだろう!!!
私はワクワクしながら、Hの到着を待った。
私の自宅に徒歩で向かうHからは、何度も電話がかかってきた。
「今、幡ヶ谷だよ」
「今、下北沢で迷ってる」
「新宿に着いた。もうすぐ着くよ、ねこさま」
一瞬、愛してもいない男にこんなことまでさせる罪悪感が、心をよぎった。
しかし、男を支配する優越感は、私にとって抗い難い快楽だった。
そう、私は「包丁妻」。
暴力で男を思い通りに操る、歪んだ愛の殉教者なのだ。
深夜2時。
疲れ果てたHが、ついに自宅に到着した。
汗だくになったHの姿を見たら、彼への愛しさが込みあげてきた。
私は着ていたキャミソールを脱ぎ、Tバックの下着を着けたままの尻をHに向けて突き出した。
「あ〜疲れた。そろそろ、寝よっかな〜?」
「寝かせないよ、ねこさま」
HはTバックを剥ぎ取り、屹立したペニスを夢中で挿入してきた。
バックスタイルで彼に突かれながら、私は自分に言い聞かせた。
これは、忠実な奴隷へのご褒美。
性の魅力に簡単に屈するHの単純さは、私をハイにさせた。
私は媚びるような声で、思いきり喘いだ。
「アッ、ダメェ、ウン、ウン、ハアッ、いい…」
「もう我慢出来ないよ。中で出すよ、ねこさま!」
体だけなら、こんなに簡単に繋がるのに。
愛は、なんて難しいんだろう…。
Hの精液がこぼれ落ちるのを足の間に感じながら、私はこっそり泣いた。