二次会も終了し、森監督や学生達が次々と帰った後、私はHと二人きりになった。
「一杯、呑んでいかない?」
帰ろうとする私を、Hが引き止めた。このとき私は、目の前の男が私に気があることを確信した。
男は、興味を持った女性を、個人的に食事に誘いたくなるものだから。
Hに誘われて、私は迷った。この人に興味は確かにあるけど、ハッキリ言ってタイプじゃない。
彼とキスしたり、セックスしたりすることは、あまり想像したくなかった。
「やってやれないことはないけど、好きこのんでこの人とイチャつきたくない」、そう思った。
けれど、当時私は、最初の結婚で出来た息子を自分の父親に突然連れ去られた直後で、心底寂しかった。
少し、心のバランスを崩してもいた。
だから、普段なら断っていたかも知れないHの誘いに、つい乗ってしまった。
「いいですよ。どこ行きましょうか?」
そう答えた私に、「この後、どうなってもいい…」という、やけっぱちにも似た気持ちがあったことは否めない。
私はHの言うがままに、歌舞伎町の居酒屋「月丸」についていった。
深夜に、男と女が二人きりで、個人的な話にならない訳がない。
「いいわ、この人が男としてどれほどのもんか、見定めてやりましょ」。
痩せた背中を見つめながら、私は腹をくくった。
「鍋がいいね」
Hはビールと、キムチ鍋を注文した。
私も同じので。
それと、たこわさとチヂミ。
赤ラークに火を点ける彼。
私も、ハイライトメンソールを吸った。
沈黙が痛い。
熱々の鍋が運ばれてきた。
「乾杯!」
生ビールを、Hは一気に飲み干した。
緊張しているのだろうか。
ごちそうしてくれる人がいるって、幸せなことだ。
キムチ鍋の野菜をつつきながら、ふとそんなことを思った。
生ビールを、ちびちびと呑む。
酒に弱い私は、すぐに酔いがまわってきた。
酔った私に、Hが言った。
「水晶(ヒカル)のこと、ちゃんとしなきゃダメだろ?」
痛いところを突かれた。
息子の名前を持ち出されて、不覚にも涙がこぼれた。
せっかく、苦労して実家の父から手元に引き取った息子を再び自分の父親に連れ去られ、「母失格」の烙印を押されたあの瞬間の痛みが、切々と胸にこみあげてきたのだ。
涙が止まらない。
酔いも手伝って、私はHの前で泣き崩れてしまった。
向かいに座っていたHが、すばやく隣に来て、私を抱き締めた。
「弱み」を見せてしまったことを、後悔する間もなかった。
「お前、放っとけないよ。行くところないんだったら、オレの所に来い!」
その言葉に、私は、すがるしかなかったのだ。
息子と、中野区の母子寮で暮らしていた私は、息子を連れ去られた今となっては、母子寮を出るより他なかったのだから。
うつ病による生活保護も受けていたから、引っ越しのお金は区から支給されるはずだった。
しかし、息子を失い、また一人に戻って一から新しいアパートを探すのは、あまりにも惨めすぎた。
見通しの立たない未来。
言葉に出来ないほどの孤独と怒り。
私は、ほとほと疲れ切っていた。
そんな時に、強引に男に言い寄られたら…そりゃ、誰だって「救いの舟」だと思うよ。
弱った私の目にHは、まさに救世主に映った。
それに、この人はマスコミにも人脈を持っている…。
私が「起死回生」を図るには、この男についていくしか道はない…。
激しくHに接吻されて私は、孤独に耐えるという真実の道を、見失った。
心が弱っている時に始まる恋愛は、決していい結果にはならない。
その後の人生で私は、幾度となくこの「法則」を、思い知る羽目になるのだけれど。
「オレの命、あと5年しかないんだ」
くちづけの後、Hがぽつりと言った。
「どういうこと?」
意外な告白に、動揺を隠しきれない。
「オレさ、肺気腫なんだよネ。今、主治医が新薬を探しにアメリカに行ってるんだけど。特効薬が見つかったら、もしかしたらもっと生きられるかもしれないけど、このままだと”あと5年の命”だって宣告されたよ」
「そんな…、タバコなんか吸ってて、大丈夫なの?」
「いや、止めたらイライラするからつい、吸っちゃうんだよネ」
「ダメだよ、私も禁煙するから、一緒に禁煙して」
「オレと、一緒に禁煙してくれるの? 佳南はそんなにオレのこと、想ってくれてるの?」
病人の助けになろうとするのは「世間の常識」であり、それは決して「愛」の結果などではないと、どうしてHに言えただろうか?
どんどん先走るHの言葉に、一抹の不安がよぎる。
けれど、「あと5年の命」しかない男の決死のプロポーズに、女として応えたい気持ちもあった。
もしも本当にこの人が5年後に死ぬことになるのなら、尚更、私はこの愛に応えるべきではないだろうか?
人生は短い。しかも、愛は一瞬で通り過ぎる。
だからこそ、愛を逃してはならないと、その時は思った。
ただ、気がかりなことがひとつあった。
Hの彼女のSさんのことだ。
「ねぇ、Sさんは、どうするの? 別れるの?」
「あいつのことは、何も心配しなくていい。あいつ、病気のオレを見捨てて、小学館の編集者と結納したんだ。もう、Sとは切れているから」
「そうだったんだ…」
キッパリと言い切ったHの言葉を聞き、私は彼の病気のことも、Sさんの結納話も、無条件に信じてしまった。
病的な嘘つきは、つねに堂々としているものだ。
巧みな詐欺師の話術はどこかドラマチックで、彼らの感情豊かなキャラクターは他人の興味を惹きつける。
華やかなファンタジーは、凡人を誘う毒の花のようなもの。
私は、「元オウム信者」にすっかり魅入られてしまった、哀れな一匹の蛾だった。
いつか蝶になることを夢見過ぎていたから、けばけばしい毒花に捕らえられてしまったのかも知れない。