「おーい、やっさん」
「おお、Hちゃんじゃないか!」
新百合ヶ丘の駅前で偶然、映像プロデューサーの安岡卓治さんにお会いした。
安岡さんは、多忙ななか披露宴に駆けつけてくださった大恩人だ。
その安岡さんに向かって、Hは馴れ馴れしくも「やっさん、やっさん」と話しかけている。
安岡さんは、そんなHに、大物らしく気さくな態度で応対してくださった。
「やっさん」と別れた後のHは、とても得意気だった。
「な、オレたちには、『やっさん』まで味方についてるんだよ、クククク」
「ねぇ、どうして安岡さんに、あんなに馴れ馴れしくするの? 失礼だよ」
「だって、『やっさん』とオレのつきあい、長いもん。それにオレ、映画学校で講師やってるからサ、オレの実力を『やっさん』は分かってるんだよ」
新婚当時、HはN映画学校の講師をして収入を得ているのだと、私に語っていた。
披露宴に安岡さんがいらしたことや、安岡さんとの親しげな様子から、私はHの話を素直に信じてしまった。
披露宴が終わったら、すぐに上九一色村に行って、オウムのドキュメンタリー映画を撮るのだとHは語っていた。
オウム真理教による、無差別テロ事件から10年目にあたる05年に上九一色村で映画を撮ることで、Hはサリン事件そして教団に対して、自分なりに心の整理をつけたいのだと言う。
撮影には私も同行して、ナレーションその他のアシスタント業務をこなす約束もしていた。
私は、Hの映画に賭ける情熱を、いつもまばゆく眺めていた。
しかし、いつまで経ってもHは、撮影の準備を始めようとしない。
それに、仕事をしている気配も全くない。
不審に思ってHに尋ねると、
「今、学校は冬休みだから、授業はないんだよ」
と答える。
「冬休み? それで、お給料はいつ振り込まれるの?」
「もうすぐ、映画学校から10万円振り込まれるから大丈夫だよ。ねこちゃんは、何にも心配しなくていいの!」
披露宴の前後から、私は何故かHに、「ねこちゃん」と呼ばれるようになっていた。
私が、まるで猫みたいに甘えん坊で可愛らしいから、というのが理由らしいけれど、Hの意外な一面を垣間見た思いがした。
「ねぇ、10万円で、どうやって生活していくの?」
「いざとなれば、500万円の定期預金をくずすから平気だよ。それに、もうすぐ映画の制作費の30万円も振り込まれるし」
そう言ってHは、毎日家でゴロゴロしていた。
この人、本当に映画を撮る気、あるのかな…?
私は次第に、Hとの生活に不安を覚えるようになった。
映画学校のお給料が1月末に振り込まれるとHが言うので、それまでの生活費は披露宴のご祝儀でまかなった。
この頃ようやく私は、この結婚の「異様さ」に気づいた。
なけなしのご祝儀が底をついた頃、私はN映画学校のホームページを見た。
すると、「講師紹介」の欄に、Hの名前が載っていないではないか!
慌てて学校に問い合わせたら、
「Hさんは、安岡卓治の講義のゲスト講師として、一度だけこちらにいらしていただきました」
との回答が返ってきた!
ゲ、ゲスト講師! 一度だけ!!
私は、すっかりパニック状態に陥った。
心臓の鼓動が、どんどん速くなるのがわかる。
動揺する心を鎮めるべく、私はレキソタン(精神安定薬)を、一気に20ミリ飲んだ。
その晩、薬の作用でふらつきながら、私はHを問い詰めた。
「あんた、映画学校の講師なんて、嘘やん! 私、学校に問い合わせて調べたんだからね。お給料が10万円振り込まれる言うんも、嘘なんやろ? これから、どうやって生活していくの? もう、ご祝儀のお金も無いんよ!」
叫ぶように早口でまくしたてて、私は泣いた。
「ねこちゃん…」
Hは、私の頭を撫でようとした。
「触るなや、この嘘つき! 500万円の定期預金、今すぐ出してや! 映画の制作費たらいう30万円も、どうなったん? 今すぐ出せ!!」
騙されていた悲しみと悔しさで錯乱する私の隣で、Hは放心したようにボーッとしている。
人が真剣に話しているのに、どこ吹く風といった様子だ。
「言葉で訴えてもわからないこの男には、体でこの痛みをわからせるしかない…」
私は無言でキッチンに向かい、包丁をきつく握りしめた。
「ね…ねこちゃん、何してるの…?」
異変を察したHの顔色が、みるみる青ざめてゆく。
刃先をHの顔に突きつけて、私は叫んだ。
「嘘つき野郎、殺してやる!!」