なぜ、「自分を大きく見せる病」にかかっているHの正体を、もっと早くに見抜けなかったのだろう?
「ジャーナリスト」という嘘、「近●大学卒」という嘘、「映画学校の講師」という嘘、「貯金が500万円あるという嘘…。
働こうとしないHに見かねて、彼をハローワークに連れて行った。
そこで警備員の仕事を紹介されて、Hは4日間の研修をなんとか終えた。
けれど、上九一色村に「出家」していた約1年間の空白を経歴詐称していたことが会社にバレて、ついにHは一度も警備員として働くことはなかった。
警備員にもなれないなんて! 私は泣いた。
「こんなドキュン人生に、私を巻き込みやがって! 畜生!!」
男を見る目のない自分への、どんよりとした自己嫌悪。
もはやHに、暴力をふるう気力もない。
「何とかするから。ねこさま、泣かないで」
「どうやって何とかするの! 披露宴のご祝儀も、お義母さんにもらったお金も全部使っちゃったから、もうお米を買うお金もないんよ! どうするの、これから…」
「N山さん(注・ご近所のおばさん)に土下座してお米貰ってくるから! 泣かないで、ねこさま」
Hが私を抱きしめようとしたので、体全体で彼を突き放した。
実は近頃、彼とセックスしていない。
体が、生理的に彼を拒絶するのだ。
「そんなに、オレのことが嫌いか!」
「嫌われたくないんだったら、金出せよ、金!!」
「カネ、カネ、カネ、カネうるさいな! 結局お前もオレの金目当てだったんだろ!」
「はぁ? 目当てにする金なんか、持ってないじゃ〜ん! あひゃひゃひゃひゃひゃ」
私が笑うと、Hは目をむいて逆上した。
「何だと! もう一回言ってみろ!」
「あーうざいなーもう。いいから、早くN山さんにお米貰ってきてよ。アンタだって、お腹すいてるんでしょ」
Hは渋々、汚いシャツにボサボサ頭で、N山さんの家に出かけていった。
「もう帰ってくんな、ネズミ男…」
誰もいなくなった部屋で、私は一人呟いた。
ご近所の人にお米を恵んで貰う結婚生活なんて、ありえない…。
自分の境遇のみじめさに、毎日泣いた。
新宿のライオン会館で、盛大な披露宴をやった手前、みじめな結婚生活の現実など、とても友人達に話せやしない。
幸せの絶頂だった私は、Hがローンで買ってくれたダイヤの結婚指輪を、独身の女友達に見せびらかしていたのだから…。
それでも、この苦しさを誰かに聞いてもらいたかった。
そこで思いついたのがブログである。
当時私は、既に自分のホームページを持っていたけれど、大勢に見られているホームページには、どん底の現実は書けない。
だから、ホームページとは別名義のブログを匿名で持ち、「包丁妻の日記」と題して赤裸々な結婚生活の実態をそこに綴ることにした。
「包丁妻の日記」は、私の心を随分楽にした。
どんな苦しみも、文章化することで客観視できるようになる。
当時、私がブログに綴っていたのは、次のような文章だ。
「本日の所持金13円、夕飯の米をご近所に貰わないと食べられないなんて、恥ずかしくて誰にも言えやしないよ。
だからここで言ってるんだ。
いい年をして、母親から1万円ずつ仕送りしてもらうだなんて、やめてくれ。
母親からの仕送りが届かないと、何にも買えない。どこにも行けない。
こんな、みじめな生活、ありえねえよ。
笑っちゃうくらい、不幸な人生。
ひとつ言えるのは、人生はひとつ坂を転落してしまったら、どこまでも堕ちてしまうものだということ。
この世はギャグだと思わなきゃ、とても生きていられない」
当初は、ブログのURLを誰にも秘密にしていたのだけど、だんだんブログの読者が増えていき、元オウム信者の妻の日常という内容から、すぐにオウム関係者や、私の友人達の知るところとなった。
こうなったら、ブログの存在を秘密にしておく意味がない。
すっかり開き直った私は、思いきって「包丁妻の日記」のURLを、ホームページに公開した。
すると、ブログの読者はさらに増えていった。
「包丁妻の日記」を読んで、私の生活を心配してくれた数人の友人が、私宛に食料を送ってくれた。
あのときの有難さは、一生忘れられない。
その食料を、Hは平気な顔でむさぼっていた。
その意地汚い姿を目撃した瞬間、私はHとの別れを固く決意した。
その頃、「包丁妻の日記」経由で私のホームページを見た、オウム問題で著名な滝本太郎弁護士から一通のメールが届いた。
当時のホームページに記載していたHのインタビュー内容に虚偽があるので、その訂正を求める趣旨だった。
オウム真理教脱会者の集いに「カナリヤの会」があるのだけれど、Hはこの会を「オレが作った、オレが代表」と言っていた。
だが、滝本弁護士によると「カナリヤの会」には代表などおらず、ましてやHが会の代表など、とんでもないとのことだった。
Hに事実関係を確認したら、
「誰かが滝本になりすまして、メールを送ってきたんだよ」
とうそぶいた。
「どうして、誰かが滝本さんになりすます必要があるの? いい加減、自分の嘘を認めなよ!」
「滝本は、そんなメールを送る奴じゃない。そこまで言うんなら、滝本を連れて来い!」
「話を逸らさないで。アンタは『カナリヤの会』の代表だって言うけど、違うんでしょ!」
「おい、オレと別れたいのか? 慰謝料が欲しいから、そんな事言ってんだろ!!」
あまりの論理の飛躍に、私は唖然とした。
「ねこさまが浮気してるの、オレ知ってるんだからな! オレは裏切られたと思ってるからな!」
「裏切ったのはどっちよ! アンタの言葉を信じて結婚したのに、ご近所さんにお米を貰うような生き方させないでよ! 好きな男くらい、出来て当然でしょ!」
「やっぱり、あいつと浮気してたのか! もう絶対に、ねこさまを一人で外に出させないからな!!!」
「ふざけんな、ストーカー!!」
机の上にあったカニばさみを握りしめ、私はHを脅した。
条件反射のように、Hが身を硬くする。
「悔しかったら、オマエも女作ってみろ、このネズミ男!!」
結婚生活の破綻は、もはや時間の問題だった――。