保護シェルターを出て、夫と復縁!?

2005年3月1日、家出したこの日を、私は一生忘れない。

荷物は、パスポートと銀行のキャッシュカード、携帯電話、(私はうつ病にかかっていました)に、大切な本が数冊。


ほとんどの服や本は、置き去りにするしかなかった。

荷物が多すぎると、Hに家出を疑われる可能性があるからだ。


少ない荷物をカバンに詰め込んで、私はHのマンションから、市役所の福祉事務所へと向かった。

空は青く晴れているのに、空気が寒い。

冷たい風を全身に感じながら、私はHとの別離の決意を新たにした。


この家出は、私がひとりで人生をやり直すための、大切な儀式。

もう、後戻りは出来ないのだ。

強くなれ、私!!


ガチガチに緊張した私を福祉事務所で待っていたのは、ベテラン婦人相談員のMさん。

01年10月13日からDV法が施行されたおかげで、夫や恋人から暴力を受けた女性は、行政とNPO法人の連携により、法的に保護される権利があるのだ。


さんざん、包丁をHに振り回してケガをさせ、何か彼が気にくわないことをするたびに蹴りを入れていた私でも、たった一度、Hに首を絞められ殺されそうになったことでDV法が適用され、法の庇護にあずかれることになった。


ホント、女で良かったわぁ。


Mさんに連れられて、私は都内某所の、普通の一軒家に行った。

この、一見普通の民家が、夫や恋人の暴力から逃げてきた女性を保護する「シェルター」のひとつなのだという。

ここに私は11日間滞在して、その間に再び生活保護を受け、新しいアパートを決めることになる。


シェルターのトイレには、


「ここの場所は絶対に教えないでください」


という、何とも物物しい張り紙が張られていた。

もちろん、滞在期間中はアパート探しを除き、外出禁止である。

携帯電話など、外部と連絡を取る行為も一切禁止。

私は、シェルターの女性に携帯電話を取り上げられてしまった。

まさに一種の軟禁状態である。


携帯で、友達にメールも送れないなんて!

気晴らしの手段を奪われてしまった私は、途方に暮れた。


けれど、今はそんな呑気なことを考えている場合じゃない。

ここには2週間までしか滞在出来ないから、その短い期間に新しいアパートを探して、今後の人生設計を立てなければならないのだから…。


シェルターの冷蔵庫には食料が満載で、それらの中から好きな素材を使って自由に調理が出来る。

緊張のあまり食欲をすっかり失った私は、レンジでチンするだけの食材を朝のみ食べて、後の時間はほどんど読書をして日々を過ごした。


シェルターには、私の他に初老の女性と、二人の幼い子どもを連れた若い母親がいた。

彼女らの境遇を尋ねるのは、もちろんタブー。

最低限の会話を交わすのみの毎日だ。

女同士、グチを言いあうことも出来ない。

シェルターでの生活は、とにかく退屈だった。


外出出来ないことは結構な苦痛だったので、アパート探しの為に外出を許された時の開放感は、格別だった。

新しい新居は、すんなりと決まった。

子連れだったり、保証人(身内)がいなかったり、外国人だったり、高齢者だったりすると、アパートを探すのも一苦労なのだそうだ。

私の人生は波乱万丈だけれど、肝心なところで運がいい。


ひとつ問題だったのは、隣の部屋の赤ん坊がいつもギャギャーうるさく泣くので、ひどく耳障りなことだった。

基本的に子ども嫌いな私は、赤ん坊の泣き声が聞こえないように、フェミニズム関連の講演テープを借りてきて、ヘッドホンで聴いたりしていた。


福島瑞穂さんや女性医師らが語るテープを聴いていたら、いかに私の境遇が恵まれているかを、まざまざと思い知らされた。

2年間別居しても離婚に同意してくれない夫、ガスバーナーで下半身を焼かれた女性、人工妊娠中絶に夫が同意せず、望まない妊娠を強いられている女性…。


私なんて、Hと披露宴は挙げたものの結局籍は入れなかったし(ホントは2月11日に入籍する予定だったのを、私が断固拒否したのだ)、Hの子どもを妊娠もしなかったもんな。

早々な破局で、ちょっと恥ずかしい思いはしたけれど、肝心の新しいアパートもすんなり決まったしね。


婦人相談員のMさんによると、外国人の女性達を保護することも多いそうだ。

彼女らの国籍は主に、フィリピン、中国、韓国、ブラジル、タイなど。

典型的なパターンは、妻も子どももいる日本人男性と関係を持ち、子どもまで出来たのに捨てられるといったもの。


彼女達にMさんは、


「奥さんに全部バラしちゃえ!」


と進言するのだが、彼女らは健気にも、


パパは、ワタシに良くしてくれた。奥さんにバラしたらパパ、カワイソウ


と、口を揃えて言うのだそうだ。


もしも私が彼女らと同じ境遇だったら、包丁のひとつも持って男の家に乗り込んで、


「テメエのアホ亭主に人生狂わされたで! どないしてくれんねん。あんたらの家庭、ブチ壊したろか? 嫌なら慰謝料出せ!!


って大騒ぎするなぁ、絶対。

なんたって私は「包丁妻」だからネッ!!


仕事熱心なMさんは、街でホームレスの女性や、大きな荷物を抱えた「ワケあり風」の女性を見るとつい、声をかけてしまうのだそうだ。

けれど、そんな女性達のなかには、Mさんの善意の手をはねのけて、


「いいんです。自由に生活してますから。これが私の選んだ人生です


と言い放つ人もいるのだとか。


また、シェルターに保護されたものの、いつのまにか逃げ出す女性もいるそうだ。

そんな時、スタッフの女性達は、


「根っからの自由人だったね」


と言い、敢えてその女性を追うことはしないという。

そんな話をスタッフ達から聞かされると、


「人間にとって、本当の自由って何だろう」


と、考えさせられてしまう。


2005年3月11日、私はシェルターを退所して、慣れ親しんだ街で暮らし始めた。

そんな私の元に、「ぜひ取材したい」と申し出る人が現れた。

フリーの編集者でライターの、國貞陽一さんだ。


國貞さんは、元夫Hをよく知るライター、岩本太郎さんの知り合いだった。

Hのことも、詳しくは知らないが面識はあるという。

Hとの生活を赤裸々に綴った私のブログ、「包丁妻の日記」を読み、Hと私の関係に野次馬的な好奇心を抱いたそうだ。


取材の約束をして、待ち合わせ場所の喫茶店に着いたら、皮ジャンを着た、背の高い男性が私に手を振った。國貞さんだ。

これまでのHとの生活や、シェルターの現実について、私は堰を切ったように喋った。

人と話すということに、私は飢えていた。


國貞さんとは、3時間近くも話した。

なかでも、私の胸に深く刻まれたのが、彼が語った次の言葉だった。


「フリーのジャーナリストだったら、2ヶ月収入がないなんてことも全くない訳じゃないし、客観的には離婚をもう少し待てなかったのかな、って思うんだよね」


そうか。Hはこれでも一応、10年間オウム事件に元信者として関わってきた訳だし、フリーという立場ならば、収入が安定しないのは当然だ。


それに、Hの虚言癖にしても、彼は1の出来事を10や100にして語るのは大の得意だったけれど、全くゼロからの嘘はつかなかった。

もしHが根っからのホラ吹き野郎だったら、披露宴に駆けつけてくれた、大勢のマスコミ関係者達の信頼を得られただろうか?


何故私は、こんなにも性急に、家出→離婚への道を選んだのだろう?

Hに生活力と計画性がなかったのは確かだけれど、私こそHへの愛が、妻として足りなかったんじゃないか…?


國貞さんの言葉が、頭の中をグルグルと駆け巡る。

取材を受けていた最中、私はHへの未練などカケラもないとケタケタ笑っていたし、もう二度と彼には会わないと固く決心していた。

なのに、胸に込みあげてくるこの寂しさは何?


私の愛が足りなかったことを、どうしてもHに詫びなければいけないと思った。

携帯の番号まで変更したというのに、私は新しい携帯電話で、Hに電話をかけた。


「もしもし」


電話口から、懐かしい声が聞こえる。


「ねぇ、生きてる〜?」

「生きてるよ(笑)」

「私達の離婚について考え直したこと、ある?」

「あるよ。明日会おうか?」

今日! 今日、ねこさまに会いに来て!!


覚悟の家出までしたというのに、こうしてHと私は、いとも容易くよりを戻してしまった…。

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